ニートの気持ち♪

どうも、縷⚡︎(るる)です

『縷々』幼稚園時代と習い事

「一生喋るな!!」


父が私を怒鳴りつけた。

いつもの光景だ。

私はとにかくお喋りが大好きで、まるで落ち着きがなかった。

見るもの聞くこと全てが新鮮。

どうして大人しくしていられようか。

そんな私は、食事のマナーの悪さや部屋の散らかり具合でしょっちゅう父を怒らせていた。

叱るのではない。

怒るのだ。

大声を出して「反抗は許さん」と言わんばかりで睨みつけ、時には拳を振り上げて。

これではただの機嫌が悪い当たり屋だ。

それでも一応「お父ちゃん」。

お金を稼いで養ってくれるのも「お父ちゃん」。

あれ、辻褄が合わないぞ?

あ、自分が「悪い子」になればいいのか!

当時の私はこの過程を無意識のうちに身につけていた。


一方、母は泣きじゃくる私を尻目に弟の世話。

きっと無垢な弟が可愛くて仕方がないのだ。

「お母ちゃんと結婚する」だってさ。

それをせせら笑う生意気な子どもは憎たらしいだけだろう。


ある日、家族で公園へ出かけた時、弟が迷子になった。

「アンタがちゃんと見ておかないから!!近くの池で死んでいたらどうしよう。

と半泣きで動揺する母。

両親が必死になる気持ちを理解できなかった私にとっては、その様子がただただ怖かった。

異常なものを見る目で、渋々付いて行った。

結局、弟は無事に見つかった。

このまま死んじゃえばよかったのに、と心の中で舌打ちをした。

非常に残酷だが、母の愛情を独り占めしている弟は敵なのだ。


さて、年中組の時、私はピアノを習い始めた。

本当はバレエをやりたかったのだが、月謝の都合で妥協せざるを得なかった。

後にこれが大惨事へ繋がる事は、まだ誰の予想にも及ばなかっただろう。

バイエル(ピアノの初級用教則本)が終わり、楽譜の難易度が上がってゆくにつれ、先生の指導が厳しくなった。

レッスンの3分の1は立たされるのがお決まり。

練習の成果が見られず、途中で帰らされた事も。

私は毎回泣いていた。

堪えようとすればするほど涙がこみ上げてくるのだ。

その度「甘ったれるな」と先生の皮肉交じりの説教が長くなった。

それでも、何も知らない母の「先生はアンタの為を思って指導なさっているのよ。」という言葉を鵜呑みにして毎週欠かさず通っていた。


小学校4年生になる頃に、事態は悪化した。

練習しているかを確認する電話が一日に引っ切り無しに掛かってきたり、私の出来が悪いのを嫌がらせと捉え「教育委員会に訴える」と脅されたりする始末。

当時所属していた合唱部の部員全員に頭を下げて回るよう、言われた事もあった。

そんな中でも、先生は母の前だけでは私を褒めた。

「期待している」と。


5年生。

先生と母にピアノを続けている理由を問い詰められた。

答えは見つからなかった。

習慣の一部として私の中に組み込まれていただけに過ぎなかったのだから。

しかし嘘を吐くと取り返しがつかなくなる。

どうにか頭を捻り「昼休みに教室のオルガンを弾くとクラスメイトにちやほやされるからです。」と言った。

先生は激昂。

母は失望。

そこで初めて「辞める」という選択肢を母に提示された。

洗脳状態だった私は素直にびっくり!

今までそんなことは考えもしなかった。

本当に辞めても良いものかと戸惑ったが頷いた。


そして晴れてピアノから解放……とはいかなかった。

先生が辞めさせようとしないのだ。

「小学校の前で待ち伏せしてやる」だとか「裁判を起こしてやる」だとかいう話を持ち出してきて、とにかく必死。

私は子どもながらに怯え、両親も大混乱。

先生の諦めか、親の説得のお陰かは分からないが、いつのまにか鎮火していた。


結果、ピアノが私にもたらしたのは焦燥感と恐怖のみであった。