ニートの気持ち♪

どうも、縷⚡︎(るる)です

ドッペルゲンガー

僕にはドッペルゲンガーがいる

そいつは僕を冷めた目で俯瞰して見ている

悲しくて泣いている時、楽しくて笑っている時、幸せでにやけている時

いつも僕について回る

 

そいつの仕事は他にもある

僕の「生きたい」を邪魔して「死にたい」と唱え続けることだ

酷く絶望的で孤独で惨めな気分になる

毎日欠かさずご苦労様、と言ったところである

 

自分の中にもう一人の人間が共存している感覚

疲労困憊だ

ドッペルゲンガーを消す方法はいくつかある

一つは「死にたい」に身を委ねてODや首吊りをすること

 

もう一つは「生きたい」を尊重してリストカットをすること

疑問に思われる方が多数であろう

自分の腕を傷つけて痛みを感じ、流れる血を目に焼き付ける事で僕は「生」を実感するのだ

自分が一つになる瞬間

 

心配をかける行為であることは百も承知であるが、生きるために必要なことなのである

どうかお許しくださいませ

家出

「引っ越し荷物を減らしたいから誕生日プレゼントを渡しに行きたい」という主旨のLINEを友人岩戸へ送った

当然だが動揺された

僕はできるだけ急いで岩戸の家へ向かった

「“ホウレンソウ”をきちんとしろ」と叱られたと同時に、もう一人の友人菜々美にも家出の件を伝えるように促された

 

岩戸と共に菜々美宅へ押しかけた

寝起きで準備も覚束ない菜々美が「今日遊べる?」と提案してくれた

岩戸は用事があり帰ったので、菜々美と二人で遊ぶことになった

彼氏との年齢差、急な家出、彼氏の家へ転がり込むこと、色々と驚かれたが「心配だけど私は君の意思を尊重するよ」と言ってくれた

 

そんな会話をしながら向かったのはカラオケ

大好きな娯楽の一つ

しかし僕の中の緊張は解けなかった

どうにも手に力が入らず、不安でたまらないのだ

あまりにも僕が落ち着きが無いため、中断して場所をトイザらスに変えてもらった

ベビーカーに乗ってふざけて大笑い

それでも手の脱力感は治らない

そこでいつもの遊び場、ヨーカドーへ向かう事にした

途中に僕のお気に入りのケーキ屋さんがあったので買ってもらった

実は私は手ぶらだったため、お金は全て菜々美に出してもらっていた

出世払いで返します

ありがとう、ごめんね

フードコートへ行ってさらにアイスも奢ってもらった

美味しかったが、無機質な味だった

楽しさを不安が上回ってしまったのだ

それでも嬉しかった

最後はゲーセンに行った

ボールが上から落ちてくるものや海賊船のゲームをやった

多分、その日一番夢中になれた瞬間だと思う

 

帰り道

親との話し合いが待っている

身の毛がよだつ

力の入らない僕の手を友人が握ってくれた

とても温かかった

少し勇気が出た

覚悟が決まった

 

帰宅

親の言葉はあまり心に響かなかった

何を話していたのかあまり覚えていない

それでも涙が止まらなかった

不思議だった

できる事なら素直に親に感謝できるいい子でいたかった

どこで歪んでしまったのだろうか

知ったところで元には戻れないからもういいけれど

徳島旅行

目が覚めると僕は夜行バスの中にいた

思わず驚きの声が出た

外は薄明るい

晴れ

 

バスは予定よりも20分程早く徳島駅に到着した

ここから汽車に乗り、由岐駅へ行く

窓に水滴が目立つようになってきた

目的地に到着した頃には雷がなるまでに……!

駅のお店で傘を貸して頂き、田井ノ浜へ向かった

雨は小降りだったが、少し蒸し暑かったので道のりは長く感じた

それでも立派な山々や可愛らしい草木を眺めながら歩くのは愉快であった

 

海へ着いた

迫力満載

真っ先に蟹を見つけた

どれもつがいになり、せかせかと動いていて可愛らしかった

水面すれすれの道を歩いていたが、怖くなって泥んこにジャンプ

すっ転んで太ももを擦りむいた

絆創膏が懐かしくて可笑しかった

浜辺にはプラスチックと流木と石ころしか落ちていなかった

とっ散らかっているのに素気無いものだ

僕は、かろうじて発見した貝殻の小さな欠けらを大事に握りしめた

 

一度通った道だったせいか帰りは早かった

傘のお礼に、駅で寿司を買った

柚子の香りが良く効いた鯛だった

汽車を待つ時間、小さな駅を懸命に散策

巨大な水槽や歴史的な物の展示等があり、案外退屈することはなかった

 

再び汽車に乗り、徳島駅

次の行き先はバスで祖母の病院へ

差し入れに由岐駅の寿司とコンビニのアイスを持って行ったら、珍しくご機嫌だった

写真嫌いの祖母が笑顔でカメラを見つめていた

 

あっという間に夕方

お土産を買い、温泉へ

普段の風呂は作業であるが、今回は自分へのご褒美のように感じた

風呂上がりは涼しく、体は軽く、爽快な気分だった

 

そのままのテンションでタピオカを飲んだ

お店で買うのは初めてだ

ただ、思っていたよりタピ活は難しかった

ストローにタピオカがつっかえたり、喉に直撃して来たり……

まあでも気分はJKだからそれでいいのだ

 

晩御飯にはローストビーフ丼を食べた

量こそ少なかったものの、質の良さと気分であっという間にお腹が膨れてしまった

あっさりとしているけれど贅沢な気分

ここ最近で口にした飲食物で一番美味しかった

 

その後、ハイテンションでカラオケやプリクラを提案したが店仕舞いで駄目だった

仕方なく寂れたポッポ街を歩いていた

シャッターだらけで閑散としていた

その静けさは僕の胸を締め付けた

駅前も通ったが、ガサツで騒がしい癖にやはりしんみりとしていて憎たらしかった

靴擦れや重い鞄がめり込む痛みは耐えられるが、こればかりはきつかった

それでも呆気なく時間は過ぎ、僕は帰りの夜行バスの中

少しもの抵抗として、夜更かしをしてやろうと思う

徳島旅行

ディズニーリゾートを恨めしい目つきで闊歩する

みんながディズニーから帰る中、僕はバスターミナルに向かうのだ

僕の行き先は徳島

祖母に会いに行く

テキトーに辿り着いたところで、母親がバスについて尋ねている

僕はまるで他人事のようにそれを眺めていた

どうやら場所を間違えたようだ

イムリミットは15分

過呼吸の予期不安に苛まれながら小走りで先ほど通った道を戻る

何とかバスターミナルに到着

チケットのコピーを忘れた云々で再びトラブル発生なのだが、どうにか乗せていただいた

 

初めての二階席だった

窓際をゲット

ラッキー☆

バスが巡る東京の街は細かく美しく、ドールハウスのようだった

僕は夜景の灯りの一つ一つに目を凝らす

こんなにも大きい建物の小さい灯の中で人が生活している様を想像すると何とも感慨深い

人とは何とちっぽけな生き物だろうか

 

睡眠導入剤を飲んだので少し眠たい

それでも東京の街を見逃す訳にはいかないのだ

ネオン、看板、奇妙な形をした建物……夥しい情報量ではあるが、少しでもそれを自分の手に取りたい

目紛しく変わる景色は飽きることがない

 

バスがトンネルに入る瞬間、囁やかなスリルを味わう

ビュービューゴーゴーと不穏な音と点滅するライト

面白い

 

気がついたら寝落ちしていた

休憩の停車で目が覚めた

足柄PAらしい

とりあえず外の空気を吸った

自分の乗ってきたバスを忘れて少し焦った

 

ここからは消灯時間らしい

空になったお〜いお茶を握りしめ、水の有り難みを知る

外の景色も真っ暗である

常夜灯と車のライトが唯一の灯

それらは濁った夜空で星を見つける瞬間の如く、僕を惹きつける

また闇の濃度が違っているのも見どころだ

薄ら明るい曇った空に比べ、大きく聳え立つ山は全てを吸い込んでしまいそうなほど暗いのだ

 

風景も特に変わり映えしないし、今日の徳島巡りに体力を温存しておきたいのでそろそろ実況を終えよう

恐らくまだ音楽を聴きながら外を眺めている事だろうが、おやすみなさい

『縷々』現在

拝啓、とりあえず二十歳になった僕へ

 


心身の調子はいかがでしょうか。

僕は現在、うつ病パニック障害(不安神経症)、境界性パーソナリティ障害と闘いながらニートをしております。

ご存知の通り、大学は2日で辞めました。

僕にはもう限界だったのです。

 


結婚まで約束していた彼氏ともお別れしました。

お忘れではないと思いますが、僕が電車で過呼吸を起こした時に他人のフリをされた挙句、鼻で嗤われ、そして「俺の誕生日を台無しにしやがって。毎回介助させられているこっちの身にもなってみろ。恥さらし」といった趣旨の事を言われたもので……。

さらに後日、都合のいい女として利用されかけ「病気や薬のせいじゃなくてオマエの頭がおかしいんだよ。死ねばいいのに。」というお言葉を頂戴致しました。

最後に届いたロミオメールならぬ手紙で心を惑わされた僕は彼に電話しましたが、無視を続けられた果てに塩対応。

何が「復縁したいと思っていた。別れた今でも貴方は大切な人です。」だ。

 


さて愚痴になってしまいましたが僕、2019年7月20日の時点で3回自殺未遂をしております。

一度目、3月20日は大学への不安から。

夜中の住宅街を部屋着のまま駆けつけてくれた友人、菜々美に助けられました。

彼女は僕が首吊りをしたツイートをたまたま目撃し、私の母に電話してくれました。

命の恩人です。

当時お付き合いをしていた彼氏には「恋人も友達もいて大学も行ける幸せな奴が死ぬなんて腹が立つ。」と油を絞られたものです。

 


二度目は終わりの見えないニート生活への焦りから。

薬を52錠服用致しました。

6月25日の出来事です。

幸い、目が覚めてから少々眩暈がした程度で済んだのですが。

 


三度目、7月16日は「失うものは何もない」という虚しさから。

各々の進路に向かっている友人の目には、まるで僕の姿は映っていないでしょう。

体は生きているのに、心も存在している筈なのに存在を確認して頂けない。

ひどく寂しく悲しいものです。

それならばいっそ、本当に消えてしまおう。

そう思い98錠服用致しました。

前回と同じ誤ちを犯さないようにと増量したのです。

飲んだ瞬間恐ろしくなり、母に伝え病院へ行きましたが、意識朦朧としてしまい大惨事。

母に抱きかかえられながらどうにかタクシーで帰宅したそうです。

母には「次死のうとしたらスマホ解約だから。」と言われたので、当分はしない事でしょう。

 


何故なら僕の親友はスマートフォンであるから。

スマホを通してみるとあら不思議!

たくさんの友人に囲まれているのです。

老若男女は関係なし。

多くの方々が僕のことを心配してくれます。

生きている、血が身体を巡っている実感を得られるのです。

ここで一人称が「僕」な理由を種明かし。

現代の日本での女性の地位が低いという問題のせいか、はたまた兄弟喧嘩にまで男尊女卑を持ち出してくる母のせいか、僕は自分が女性であることにコンプレックスを抱いているのです。

女性だからと見下されたり、逆に色目を使われるのは真っ平御免です。

だから「僕」はインターネットの世界の「縷々ちゃん」(僕のユーザー名)として今は生きていたいのです。

 


先日、二度目の自殺未遂をした後、Twitter上で繋がっているある方(以下Bさん)とお出掛けをしてきました。

ええ、リスクがあるのは百も承知。

親に知られたら大目玉を喰らうことでしょう。

それでも僕には必要だったのです。

生身の人間の温もりが。

スマホ越しでもない、手紙越しでもない、誰かの体温が。

だから大目に見てやってください。

くれぐれも両親には秘密でお願いしますよ!

Bさんとは鴨川シーワールドとカラオケへ行きました。

とても楽しい時間であっという間でした。

頬の筋肉がつりそうになる程笑いました。

我ながら日頃の表情筋の怠け様に驚きました。

Bさんは帰りの車の中でこう言ってくださいました。

「今日は縷々ちゃんが笑ってくれて、喜んでもらえたようでよかった。でもこれで終わりじゃないからね。次はもっと楽しくさせるから。だから生きて。」と。

これだけ自分のことを気にかけてくださる方がいる僕は幸せ者です。

本当に有難いことです。

この胸の高鳴りはどうやって言葉にすればいいのでしょうか。

笑顔が少しでも恩返しになるかしら。

 


ところで僕は、自分が不幸だとは微塵も思ったことはありません。

ある事象に対し、正か誤か、好きか嫌いか、幸か不幸かを決めるのは全て主体である自分です。

要するに僕は不幸にも幸福にもなれる訳です。

それならば幸せになってやる方が贅沢ではありません?

今までの理不尽を反逆精神に変えて、うんと幸せになって見返してやりたいのです。

僕らはつい、選ばなかった方の道に未練を抱き、また、これから待ち受けるであろう道に「最良」を求めて挑みがちです。

しかし住めば都。

「最良」なんて何処にも有りはしないのです。

もし僕が心身ともに健康だったとして。

恐らく青春を謳歌し、勉学にも励み、レベルの高い大学に入れていたことでしょう。

全部が今の僕と正反対。

でも、下を向き続け歩いた道中にも転がっているものはあるものです。

ネットの友人や文通相手の「お父さん」、分析的な性格、豊かな感性。

誰もが自分の持ち物を大事に思い、それぞれの幸せをカスタマイズする権利があるのです。

他人に笑われたって、大切なものはギュッと手の中に握って宝物にして良いのです。

 


今の僕には他者を思いやれる余裕はあまり残っておりません。

自分自身でさえ手に負えません。

だから、上記のことはそんな自分にしてやれる数少ないアドバイス

僕の病気がもし完治したとして、所謂世間様の仰る「普通」になれたとしても、これらの事だけはどうか忘れないでいてほしいのです。

僕がもがきながら手にした幸せの方法だから。

今の自分、未来の自分へ想いを馳せるのも良いですが、たまには一休みして過去の自分を思い出してあげてください。

精一杯生きている僕からのお願いです。

 


それではあまり無理をしないように。

そしてどうか、自分だけは自分の味方であるように。

よろしく頼みます。

 


2019年7月20日縷々

 


P.S.今の僕の夢は愛犬のリリィちゃんと二人暮らしをすること。

できれば海の見える所に住みたいです。

『縷々』高校時代

私が入学した高校は落ち着いた校風で、真面目な生徒が大半を占めていた。

校内で顔を合わせる人皆が、自分よりも遥かに優等生に見えた。

また、虐めの噂どころか人の悪口すら耳にする機会がなかった。

各々が自立しているので面倒な役割を押しつけられることもない。

つまり私の出る幕は無くなったわけだ。

「友達になろう」と声をかけてくれる人が何人かいたので、通学や食事等を共にしていた。

嬉しかった。

それなのに何故かしんどかった。

都合良くこき使われる事に慣れていた私には対等な友情が分からなかったのだ。

無償で親切にされたり、一定以上の距離に近づかれたりするのが怖く気持ちが悪い。

私より魅力に溢れる人はたくさんいるのにどうしてこの人達が私と親しくなろうとするのか、理解できなかった。

同情で仲良くしてもらっているのだと想像すると自分が惨めで堪らなかった。

私は独りを選ぶことに決めた。

通学中の電車で無言でその場を離れたり、食事の席では黙り込んだりすることが増えた。

それでも距離を縮めるのに一生懸命な人達がいて、申し訳なくなった。

たまに期待に応えようと過剰に頑張って笑顔を作ってみせることもあったが、どっちつかずな自分に情けなさを覚えるだけであった。

親に相談したら「甘えるな」と怒られてしまった。

 

幸い、他校に親友と呼べる人はいた。

菜々美と岩戸だ。

彼女らの話を聞くと、どうも仲間内でしょっちゅういざこざが起こるらしく、その仲介役に回ることが多いそうだ。

生徒の民度は圧倒的に私の高校の方が恵まれている。

そんな中で人の役に立っている彼女らは輝かしく、尊敬していた。

同時に、生ぬるい環境にも適合できていない自分を恥じた。

それでも、数少ない友人だったので密かに依存していた。

それに対する申し訳なさもあり、新しい場所で上手くやっている彼女らにとって、自分の存在が迷惑になっていないか不安だった。

 

こんな風に、息をしているだけで自分の醜い所が見つかる毎日。

「死にたい」が「死なないといけない」に変わってしまった。

 

孤独と不安の日々の中で、同校の知らない男子(以下K)からLINEが来た。

チャットだけのやり取りは気楽だったし、Kも友達作りが上手く行っていないようなので気が合いそうだと感じた。

 

ある日Kから「一緒に帰ろう」と誘われた。

初対面だ。

Kは小太りで、顔立ちが整っているとはお世辞にも言い難かった。

男慣れしていない私はなんとなく決まりが悪く、Kの後ろに付くようにして最寄り駅まで歩いた。

電車に乗ったとき、隣に座って良いか尋ねられ、頷いた。

彼は寝たふりを始めた。

気まずくて私も同様にした。

するとKは私の頭を撫でたり、肩を抱いてきたり、太ももに触れてきたりした。

恐怖で頭が真っ白になり、顔を上げられなかった。

乗車時間の30分間、私はその怖さと気持ち悪さに耐えなければならなかった。

縁を切りたかったが、私の変な義理堅さ故、彼とのやり取りは続き、告白されるまでに至った。

何故私のような奴に興味を持ったのか疑問に思い「私でいいの?」と返した。

他意はなかったのだが、その一言が承諾だと捉えられてしまった。

 

そんな流れでKと付き合うことになったが、悪いが本当に魅力のない人間であった。

(人間関係は合う、合わないなので、彼にも私が知らない長所はあったのだと思うが。)

登下校を共にしていたのだが、話のネタは一方的なKの趣味解説か他人の愚痴か自慢話ばかり。

私は4種類程度の相槌を使い回して聞いていたが、彼は特に気にも留めていないご様子。

それだけならばまだ我慢できるが、電車内でのキスの強要はきつかった。

断ると「泣く」だとか「死ぬ」だとか言って脅すのだ。

私は作り笑いをしながら渋々受け入れる。

ある時、その最中の写真を上級生に取られ、跡をつけられた。

不思議なことに全く怒りが湧いてこなかった。

自分だから仕方がないという諦め。

もう一人の自分が「オマエ狂っちまったな」と呆れていた。

結局、彼とは三ヶ月で別れた。

少し悩みを漏らしたとき「全部自分が悪いんだろ。」と責め立てられ、頭の中で何かがプツリと切れたのだ。

 

一方、成績は、最初の定期考査でクラス最下位というとんでもない結果を出してしまった。

授業中の居眠りと「どうせ駄目だ」と開き直って勉強をしなかったからだろう。

しかし、どうも身体が怠くて何もする気が起こらないのだ。

強制的に塾に入れられたが、体調が振るわず全く集中できなかった。

どういうわけか顔は火照り、頭は重く、手足に力が入らなくなってしまうのだ。

 

一日が長く、一年が短かった。

大した思い出も残せないまま受験生になった。

心身共に限界だった。

先程挙げた謎の体調不良と情緒不安定がつらかった。

毎日のように塾のトイレで訳もなく泣いていた。

帰り道、人混みの中でも涙が抑えられなかった。

漠然と怖くて不安で寂しくて堪らないのだ。

それでも大学生になって一人暮らしをするという夢を叶えるべく、休日も缶詰め状態で勉強をした。

しかし、もう耐えられなかった。

ある日、帰宅後リビングで「つらい」「怖い」「嫌だ」「死にたい」と泣き叫び、のたうち回っていた。

この頃から精神科へ通院するようになった。

薬の作用と家族の病気への理解を得られたことで少し気が軽くなった。

大学は試験のラクさと寮がある大妻女子大学を受験し、合格した。

 

卒業式は呆気なく終わってしまった。

もっとクラスメイトと会話をしておけばよかったと今更後悔。

人に興味はあるのだ。

未だに高校時代の夢を見るが、その度にニートをしている現状を突き付けられ、落胆するのであった。

『縷々』中学校時代

小学校で得た教訓を活かし、私は都合のいい役を演じることになった。

小馬鹿にされても、面倒な役目を押し付けられても、くだらない愚痴を聞かされても笑顔。

キャラクターはおっとり系毒舌女子。

時々他人に対して陰で辛口な事を言うと、みんな自分が偉くなったつもりで喜ぶのだ。

女子に妬まれないよう男子とは極力口を利かず、興味のない井戸端会議にはノリノリで食いつくフリをした。

ひどく性悪なのは自覚しているが、これらを自然にやってのけられる人が「普通」とみなされる世界だったのだ。

誰もがスクールカーストの最下層にならないよう、必死で互いを繋ぎとめながら他者を蹴落としていた。

私も演技としてそれを行っていたので些か罪悪感はあったものの、多くの人に気に入られて心地よかった。

「友達」と言ってもらえた。

それでも舞い上がってはいけない。

相手は私の嘘に好意を持っているだけであり、私の人間性には一切興味を持っていないのだ。

出しゃばった真似をしたらすぐに虐めのターゲットにされるだろう。

だから私は、常に自分が格下である自覚を持ち、マイナスをゼロにするつもりで、見返りは一切求めず笑い続けた。

座右の銘は「期待しない」「諦めが肝心」。

そんな私の内面には誰も無関心で、笑う度、言うことを聞く度「優しい子」という烙印を押された。

引き際が分からず疲れていたが、自分の心を誤魔化し続けた。

 

唯一の救いは部活動だった。

絵を描くのが趣味であり特技であった私は美術部へ入った。

そこは思い描いていた世界とは違っていた。

みんながアニメや漫画の話で盛り上がっており、私が入る余地はなかった。

しかし幸い、私同様居心地悪そうにしている生徒、岩戸がいたのだ。

初めはお互い手探りで会話をしていたが、少しずつ行動を共にすることが増えた。

彼女は大人しいながらも自分をしっかり持っている人だった。

さっぱりとしており、余計な嘘を吐くことをしないのでとても話しやすかった。

ありのままの自分でいられた。

また、岩戸とは笑いのツボが合ったので色々悪ふざけをして楽しんだ。

ピカソの奇妙な絵のコピーを引っ張り出してきて「ボブ」と名付けたり、顧問の先生に奥さんとの馴れ初めを聞いて冷やかしたりした。

その先生は気前の良い方で、差し入れにお菓子を持ってきてくださったり、お寿司を食べに連れて行ってくださったりした。

今は「岩戸と私がハタチになったらお酒を飲みに行こう」という約束を交わしている。

 

しかし、2年生になり顧問が変わってしまった。

けじめにうるさく、さらに自分のものには何でも「個人私物」と書かれたシールを貼っているケチな人だった。

そんな中、新たに仲間が入ってきた。

小学生の頃から仲の良かった菜々美という生徒だ。

教室では目立たないが、打ち解けるととても面白い人物だ。

私と岩戸と菜々美の三人は新しい顧問(通称P)に小さな反抗をした。

Pの個人私物であるテープを勢い良く引っ張ったり、Pの鉛筆削りに折れた鉛筆の芯を詰め込んだりして反応を楽しんだ。

菜々美が大量のゴミの持ち主だったので(彼女は捨てるということをしないようだ)、それを部室のゴミ箱に捨てて、Pに頻繁にゴミ出しへ行かせたりもした。

一番思い出に残っているのは、製作時間中のお喋りを禁止されたことへの反発として、とにかく物音を立ててやろうというものだった。

筆記用具を床に落としたり、筆箱を何度も開け閉めしたり、挙句の果てには机を叩いたり。

これにはさすがのPも苦笑い。

「静かにしろおぅ〜。」と言われた。

(Pはいちいち語尾が長かった。)

あとはPの似顔絵や迷言を書き留めたノートが6冊ある。

今となっては大事な思い出の品で、これが卒業アルバムで良いのではないかと思っている。

ちなみにPは私達の行動を黙認しており、何だかんだでトムとジェリーのような関係であった。

 

ところで私の時計は中学2年生頃で止まっている。

それ以前の記憶は別人のもののようであるし、それ以降は記憶の溜まり方が浅く、靄がかかっているようだ。

この頃から私は無気力、疲労感、情緒不安定等に悩まされていた。

漠然とした希死念慮もあった。

恐らくうつ病の初期症状だったのだろうが、周囲にうまく伝える術がなく、一人で抱え込んでいた。

 

3年生。

私は自分の進路に無関心。

一切受験勉強をしなかった。

親から言われる嫌味さえどうでも良かった。

なぜなら私の進路は、偏差値第一で親が勝手に決めるから。

 

結局、どうにか後期で偏差値60程の進学校へ入ることができた。

別段努力はしていないので、大した感動はなかった。

周囲の褒めちぎる言葉も胸に刺さらなかった。

他人事のようであった。

 

そんな冷めた調子で卒業式もテキトーにヘラヘラしていた。

貶し合っていた癖に泣き崩れる生徒達を心底馬鹿にしていた。