ニートの気持ち♪

どうも、縷⚡︎(るる)です

『縷々』小学校時代

「夏休みなんて無くて良いのに。毎日学校行きたい」と宣言していた小学校1年生。

社交的かつ前向きだった私は学校が大好きだった。

勉強は予習済みであったし、「一番の友達」(子どもは「一番」や「絶対」などとにかく強い言葉を好むのです。)がいたから。

おまけに私に好意を寄せていた男子が二人も!

 

しかし、楽しかったのは束の間。

2年生になる時、意地悪な女子Aと同じクラスになってしまった。

Aは自慢話や人の悪口を好み、他人の友情に嫉妬する、かなり我儘で厄介な奴だった。

私はしょっちゅう喧嘩を売られ、泣かされていた。

あまりにも頻度が多いので母が学校へ連絡したが、いつまで経っても決着のつかない関係に親も担任も歯ぎしり。

家では「負けるな」と怒られ、学校では担任にきつく当たられ、Aに泣かされ、おまけに習い事でも叱られっぱなし。

友人との仲はAに引き裂かれていた。

居場所が無かった。

 

ちょうどその頃、ある男子と喧嘩をして泣かせてしまい、学校から家に連絡が入った。

母は私の弁解に聞く耳持たず。

そして乾いた声で「親として恥ずかしい。アンタなんか産むんじゃ無かった。」と呟いた。

一瞬、心臓が止まったような気がした。

私は何も言えなかった。

 

このように母は、何かのはずみに私に対して冷淡な言葉を投げつける事があった。

並んで自転車を走らせている時に「アンタはトロいね。だから虐められるんだよ。」と言われたのが印象に残っている。

当時は虐められている自覚すらなかったので衝撃的だった。

また、少ない小遣いで少しずつ集めていた天然石を母に見せびらかした時「自分の趣味を他人に押しつけないで。」と突き放された。

弟の大好きな自動車の話は楽しげに聞くのに。

目の前に散らばっている色とりどりの石がくだらないものに思えてきた。

同時に漠然と罪悪感を覚えた。

 

3年生になり、弟も小学校へ入学。

ある休日、テレビを見ながら父が弟に勉強を教えていた。

弟の集中力のなさ(テレビに興味を示さない子どもがいるだろうか)と飲み込みの悪さを理由に父が怒鳴った。

やがてそれは激化し「死んじまえ。」と言い、弟の顔面を殴るまでに至った。

敵である弟が潰されている悦びと父への疑心、次は自分が標的にされるのではという恐怖。

色んな感情が混ぜこぜになっていた。

そんな私の気も知らず、テレビの内容を生き生きと解説し始める父。

弟は除け者にされ、咽び泣いている。

信じられなかった。

私の中の何かが音を立てて壊れた。

「こいつは親じゃない」と心が叫んでいた。

だが、それらを押し殺し、父のご機嫌取りをしてヘラヘラと笑うことしかできなかった。

正解が見つからなかった。

 

一方、学校にも馴染めず、徐々に虐められるようになってきた。

無視、からかい、聞こえよがしの悪口、失敗を執拗に咎められる等の軽いものであったが。

原因は三つ程思い当たる。

一つは男子と仲良くしていた為、クラスのボス女子とその取り巻きに嫌われたこと。

二つ目は、母に言われた通りトロく鈍感であったこと。

それに加え感情表現が豊かだったので、からかうには最高の玩具だっただろう。

三つ目は、ゲーム、テレビ、漫画等はやりのものが禁止されていた家庭であった為、同級生と話が合わなかったこと。

ある男子に「いつも家で何してるの。」と尋ねられ、テキトーに「片づけ」と答えたら「そんなに家、汚いの?」と目を丸くされたことがある。

 

それでも僅かな楽しみはあった。

夏休みに毎年、徳島県の祖母の家へ行くことだ。

父が運転する自動車で半日以上かけて向かうのである。

その道中のまあ愉快なこと!

家を出る時間帯である深夜の閑散とした住宅街は、まるで私たち一家以外の人類は残ってはいないのではないかと思わせた。

大げさに聞こえるだろうが、小学生の頃を振り返ってみてほしい。

日付が変わる前には眠りに就き「夜」なんてものは存在しなかっただろう?

そして高速道路へ入る。

常夜灯や車のライト、トンネルの点滅が幻想的で堪らない。

サービスエリアも面白い。

唯一生身の人間を確認できるのだ。

そこで買うおにぎりやらおでんはとても温かく、いつもの何倍も美味しい。

首都高速に入った辺りから、景色が賑わいを見せる。

高層ビルの作り出す夜景やレインボーブリッジ、東京タワーが輝いている。

その後(おそらく静岡県辺り)はひたすら真っ暗。

対照的に車内のラジオは盛り上がっているというのに。

私は睡眠を取らず、暗闇がトワイライトは変わっていくのを見届ける。

やがて、朝靄で真っ白な世界から、観覧車が覗き出す。

愛知県のサービスエリア、刈谷の目印だ。

そこで吸う早朝の空気の何と清々しいこと!

昼間の高速道路も趣き深いところである。

青々とした山や剥き出しになった地層がそびえ立つ下に点々と民家が見える。

人類の営みとは何と儚いものだろうか。

あの壮大に見える山々も木の集まりに過ぎないのだ。

不思議なものである。

また、三重県に入った時に見える四日市コンビナートも私の興味をそそる。

人類と自然の戦争のようだ。

もくもくと登る煙が不穏である。

このように様々な景色を見ていると死が連想される。

己の存在の小ささと諸行無常を感じるのだ。

そんな中で聴くスピッツのCDは爽やかで心地良い。

後に音楽プレイヤーを買ったとき、夜に流して感傷に浸り、よく泣いたものだ。

懐かしく、ほろ苦く、しょっぱい味の涙だ。

そんなこんなであっという間に淡路島と徳島県を繋ぐ大鳴門橋は吸い込まれてゆく。

天にも届きそうな柱や、下を取り巻く渦潮に畏れを抱く。

そして何より、徳島県に入ったことで大はしゃぎするのである。

私の祖母の住んでいる所は伊座利という「何も無いけど何か有る」を売りにしている漁村だ。

本当に何も無いのである。

だから食糧を調達しながら向かう。

その道のりがまあ長いのであるが、目まぐるしく変わる景色や車のナンバープレートを見たり、これから待ち構えている伊座利での楽しい事を考えて暇を潰す。

トンネルを抜け、山をぐるぐる回る道路に入ると海が見え始める。

空との境界が曖昧になっていて、見事なグラデーションだ。

トンビの鳴き声も聞こえる。

こうして伊座利に到着。

車を降りて潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、祖母の家目掛け一直線に走る。

立て付けの悪い木の引き戸を開けると畳と土と埃の匂い。

そして祖母が待っている。

伊座利では川でエビを獲ったり、バーベキューをしたり、海水浴をして遊んだ。

夜には花火をした。

時が経つのはあまりにも早い。

皺くちゃの顔で笑うよぼよぼの祖母との別れはとても辛かった。

互いに力強く手を握る。

私も弟も大泣き。

「また来年」なんて言うが、祖母の寿命を考慮するとこれが最後かもしれないのだ。

帰り道は疲れてぐったりと眠ってしまうのですぐ家に着いた。

あれだけ祖母との別れを惜しんでおきながらも、やはり自宅が一番落ち着くことを痛感させられる。

 

そして6年生。

相も変わらず虐められっ子。

机をしつこく蹴ってきたり嫌味を言ってくる男子がいたので母に相談した。

すると「先生に言いつけてやる」と意気込んで母は保護者面談へ向かった。

しかし帰ってきた母の第一声は「アンタがあからさまに嫌がるからいけないんでしょう!!」。

私よりも担任をこの人は信用するのだとガッカリした。

期待することの愚かさを学んだ。

何度目になるか分からない「こいつは親じゃ無い」をグッと飲み込んだ。

また、私をからかって面白がる女子もいた。

「喋ってみろ」と囃立てる。

今までの負けず嫌いな私なら反抗していただろうが、この時は彼女の言うこと全てに従った。

するとからかいはあっさり止まり、彼女に気に入られるまでになった。

「私って皆んなに嫌われていると思う?」「武ピーにはお世話になったから卒業文集のテーマそれにしようかな。」と言われてびっくり。

案外チョロいもんだなと思った。

要は、自分の感情を後回しにして相手の要求に応じれば上手く立ち回っていけるのだ。

「悲しい」「嫌だ」という自分の心の声は無視してヘラヘラ笑っていれば事は丸く収まるのだ。

この出来事は教訓として、私の心に深く刻まれたのであった。

『縷々』幼稚園時代と習い事

「一生喋るな!!」


父が私を怒鳴りつけた。

いつもの光景だ。

私はとにかくお喋りが大好きで、まるで落ち着きがなかった。

見るもの聞くこと全てが新鮮。

どうして大人しくしていられようか。

そんな私は、食事のマナーの悪さや部屋の散らかり具合でしょっちゅう父を怒らせていた。

叱るのではない。

怒るのだ。

大声を出して「反抗は許さん」と言わんばかりで睨みつけ、時には拳を振り上げて。

これではただの機嫌が悪い当たり屋だ。

それでも一応「お父ちゃん」。

お金を稼いで養ってくれるのも「お父ちゃん」。

あれ、辻褄が合わないぞ?

あ、自分が「悪い子」になればいいのか!

当時の私はこの過程を無意識のうちに身につけていた。


一方、母は泣きじゃくる私を尻目に弟の世話。

きっと無垢な弟が可愛くて仕方がないのだ。

「お母ちゃんと結婚する」だってさ。

それをせせら笑う生意気な子どもは憎たらしいだけだろう。


ある日、家族で公園へ出かけた時、弟が迷子になった。

「アンタがちゃんと見ておかないから!!近くの池で死んでいたらどうしよう。

と半泣きで動揺する母。

両親が必死になる気持ちを理解できなかった私にとっては、その様子がただただ怖かった。

異常なものを見る目で、渋々付いて行った。

結局、弟は無事に見つかった。

このまま死んじゃえばよかったのに、と心の中で舌打ちをした。

非常に残酷だが、母の愛情を独り占めしている弟は敵なのだ。


さて、年中組の時、私はピアノを習い始めた。

本当はバレエをやりたかったのだが、月謝の都合で妥協せざるを得なかった。

後にこれが大惨事へ繋がる事は、まだ誰の予想にも及ばなかっただろう。

バイエル(ピアノの初級用教則本)が終わり、楽譜の難易度が上がってゆくにつれ、先生の指導が厳しくなった。

レッスンの3分の1は立たされるのがお決まり。

練習の成果が見られず、途中で帰らされた事も。

私は毎回泣いていた。

堪えようとすればするほど涙がこみ上げてくるのだ。

その度「甘ったれるな」と先生の皮肉交じりの説教が長くなった。

それでも、何も知らない母の「先生はアンタの為を思って指導なさっているのよ。」という言葉を鵜呑みにして毎週欠かさず通っていた。


小学校4年生になる頃に、事態は悪化した。

練習しているかを確認する電話が一日に引っ切り無しに掛かってきたり、私の出来が悪いのを嫌がらせと捉え「教育委員会に訴える」と脅されたりする始末。

当時所属していた合唱部の部員全員に頭を下げて回るよう、言われた事もあった。

そんな中でも、先生は母の前だけでは私を褒めた。

「期待している」と。


5年生。

先生と母にピアノを続けている理由を問い詰められた。

答えは見つからなかった。

習慣の一部として私の中に組み込まれていただけに過ぎなかったのだから。

しかし嘘を吐くと取り返しがつかなくなる。

どうにか頭を捻り「昼休みに教室のオルガンを弾くとクラスメイトにちやほやされるからです。」と言った。

先生は激昂。

母は失望。

そこで初めて「辞める」という選択肢を母に提示された。

洗脳状態だった私は素直にびっくり!

今までそんなことは考えもしなかった。

本当に辞めても良いものかと戸惑ったが頷いた。


そして晴れてピアノから解放……とはいかなかった。

先生が辞めさせようとしないのだ。

「小学校の前で待ち伏せしてやる」だとか「裁判を起こしてやる」だとかいう話を持ち出してきて、とにかく必死。

私は子どもながらに怯え、両親も大混乱。

先生の諦めか、親の説得のお陰かは分からないが、いつのまにか鎮火していた。


結果、ピアノが私にもたらしたのは焦燥感と恐怖のみであった。